無題ドキュメント
誰も知らない翔子と琥貴だけの指切り。
大丈夫だと翔子は思った。
どんなに暴力を振るわれても夫と別れなかったのは、1人で子供を抱えて生きて行く自信がなったからだ。
自分の足で立って生きる、と言うことをしたことがなかったのだ。
翔子を虐げた後の夫は優しい。
その優しさが3日と続きはしないことも解っている。
解っていても尚、1人で生きる孤独や不安よりはましだ、と自分をごまかし続けていた。
しかし、それが琥貴や生まれたばかりの泉にまで及びそうになった時、初めて彼女は夫に逆らった。
逆らった挙句殴られて気を失い、束の間の優しさに慰めを見出し、そしてまた殴られる日々の繰り返しの中で、何度死の誘惑に駆られたことだろう。
いつにもまして激しい暴力を受け、気を失っている間、翔子は不思議な夢を見た。
けたたましく泉の泣き声がする。
同時に夫の苛ついた怒声も響いた。
            
泉が危ない。
そう思っても体は動かずただ泣き声だけが耳に入る。
夫が泉に手を挙げた瞬間、琥貴が割って入りそのまま殴られて倒れるのが感じられた。
「琥貴!!やめて!!」
声にならない声で翔子は叫ぶ。
とその時、2人を包む白く大きな何かが彼女の目に飛び込んできたのだった。
「羽?・・・・天使・・・?」
目が覚めると夫の姿はなく、子供たちも眠りについていた。
慌てて抱き寄せると眠そうな目をこすりながら翔子に甘えてくる。
生きてる。
神様・・・ありがとうございます。
この時ほど命の重みを感じたことはなかった。私はこの子達を守らなければならない。
そう私は母親なのだから。
以来、翔子は夫の手から逃れる方法を探し続けた。
逃げようと思っていることを悟られてはならない。
   
終わることのない暴力は、彼女から生きる気力を奪い取っていく。
しかし、何度目かの死の誘惑に駆られてぼんやりと陸橋から下を覗いていた時、再びそれは訪れたのだった。
     
ここから身を投げたら死ねるかしら。
傍らでは琥貴が不安げに見上げている。
「こうちゃん。お母さんと別の世界に行く?」
「べつのせかいってどこ?」
「ここからううんと遠い所かな」
「とおいってどれくらいとおいの?あしたはかえってこれるの?」
「いいえ。帰ってはこれないわ」
「・・・・・やだ。あしたはれなちゃんのたんじょうびだもん」
「そっか。玲奈ちゃんのお誕生会だったわね」
「あっ!おかあさんきれいなはね。れなちゃんにあげたい」
「羽?」
ふと翔子の頬に触れる何かがあった。目を上げると白いそれが風と共に舞っている。
手を伸ばして掴めそうになった瞬間、するりと空に軌跡を描きながら還っていく。
                                   
それは決して手に入れる事の出来ない未来のようにも思えた。
「あの時の羽?いえ、そんなばかな」
もう一度目を凝らして見ても、空にはもう何も舞ってはいない。
「おかあさん。みてみてあそこ!きれい」
琥貴の小さな指が示す方を見ると、雲間から幾筋もの光の束が地上へと伸びている。
「まあ本当に綺麗ね」
「おかあさん。あれはなに?」
「さあ何かしら?お母さんにも解らないけど、天国のカーテンみたいね。」
「てんごくのかあてん?」
「きっと天使さんたちが隠れんぼしてるのよ」
「てんしさんのかくれんぼ?いいなあ」
「こうちゃんも天使さんと隠れんぼしたい?」
「うん。したい!」
そう?でももう少しあとにしようか。天使さんもきっと待っててくれるから」
「てんしさん、あそびにきてくれるかな」
          
「ええ。きっとまた会えるわ」
             
その後も白い羽は翔子に寄り添うように現れては消えた。
幻を見ているのかもしれない。
そう思いながらも、心のどこかで羽が自分を見守ってくれていると信じたかったのだ。
逃げる様に別府に帰り生活が少し落ち着いた頃、翔子はやっと手紙を書く気持ちになれた。
実家にも居場所はないと知りつつ、自立するまでの期間は親子3人で肩を寄せ合い、孫がもう使わなくなったからと近所の人から貰った2段ベッドが世界のすべてだった。
それでも琥貴は天井に空の写真を貼りめぐらせ、高い所で眠ることに喜びを隠せずにいた。
時折、下の段で眠る翔子と泉をじっと見下ろし、安心してまた自分の布団に潜り込む、いつしかそれが琥貴の日課のようになった頃、彼が興奮したように上の段から降りて来て叫んだ。
「おかあさん。てんしさんがきたよ」
「こうちゃん?天使さんがどこに来たの?」
「ここだよ。ぼくのすぐそばまで、てんしさんがきたよ」
    
「どうして天使さんって解ったの?」
「まっしろなはね。いつかおかあさんとみたはねだよ」
「羽が・・・見えたの?」
「うん。はねをつけたひとがそばにいたんだよ」
「羽を着けた人?」
「てんじょうのおそらをとんできてくれたんだよ」
「そう・・・天井のお空をね
」 翔子は琥貴が天井に貼った空の写真を見ながらふと思った。
もしかしたら、これのお蔭だったのかも・・・・
取り出したキーホルダーに幼馴染の顔が重なる。
琥貴が出来た時、安産のお守りとして茅乃がくれたものだ。女神の横顔のそれはヘカテと言う名だった。
私はもう十分守られました。神様、今度は私の大切な友人をどうかお守りください。
そう祈ると茅乃宛ての手紙にそっと入れ込んで窓の外を見た。
いつか見た空だ・・・・・・
幾重にも重なった光の梯子が伸びて、雲間からの木漏れ日が部屋の中を明るく照らす。眩しさに思わず翔子は目を細めた。
ささやかな約束
茅乃へ
元気にしてますか?
おばさんの具合があまりよくないんですって?こっちとそっちを行ったり来たりだっておじさんに聞いたわ 無理しないでね。
ヘカテのキーホルダー、覚えてる?
私が結婚する時に貴女がくれたものよ。
貰ったものを返すのは失礼かとも思ったけれど、今は貴女に持っていてもらいたので同封します。
早く貴女にも小さな天使が訪れるように祈ってます。
もし、私に何かあっても悲しまないでね。
自分で選んだ道だから。
あの時、貴女から反対されてもお腹の中の新しい命を考えると引き返すことは出来なかった。
でも、それすらも言い訳よね。弱かったの。
強くならなければと思います。
近々帰って来るんですってね。
続きはその時また話します。           翔子 
  「お母さん。パン食べていい?」
琥貴が食パンの袋をおずおずと翔子に差し出した。
「こうちゃん、どうしても我慢出来ない?これ食べちゃうとね・・・」
言いかけて翔子は言葉をのみこんだ。
育ちざかりの男の子にそれは酷なことだろう。
「そのままでいい?マーガリンまだちょっと残ってるはずだから。そうだ、うんと奮発してお砂糖かけちゃおうか?」
「ほんとに?いいの?」
「いいわよ。インスタントコーヒーも飲む?お砂糖入れてううんと甘くして」
「やったあ。こおひいものんでいいんだ。ぼく、おさとう、ううんといれる」
空き瓶に入った砂糖は湿気てごつごつとした石の塊のようになっている。
それでも琥貴にとっては甘い誘惑に満ちた真っ白な世界だ。
シャリシャリとアルミのスプーンで器用に削りながら、カップにそれを運んでいく。
「いち、にい、さん・・・・・」
              
「凄いねえこうちゃん。5杯もお砂糖入れるの?」
      
「うん。いっぱいあまくするんだ。そうしたら、いずみものめるよね?おかあさん」
琥貴はスプーンで液体を混ぜながら、小さな泉を覗き込んで無邪気に笑った。
「あらあらこうちゃん。優しいのね。でもいいちゃんはまだ飲めないのよ」
「ううんとあまくしても?」
「そうね。いいちゃんにはまだ無理ね。」
「じゃあいつになったらのめるの?」
「そうねえ。今みたいに雪の降る寒い季節があと5回くらい来たらね・・・・」
言いながら果たして、この子らにその季節が巡りくるのか?翔子は不安になるのだった。
もうすぐ夫がこちらにやってくる。
ちゃんと話さなければ、未来すら手に入れることが出来ない気がする。だが、話して解る相手でもない。
また、暴力に訴えられたらどうすればいいのだろう?
    
「・・・か・・・あさん?」
                
琥貴が不思議そうな顔をする。
「ゆきって?さむいの?もうはるじゃないの?」
「ああそうね。もう3月だから春と言えば春よね。今年は寒いからまだ雪が降るらしいけど」
「さむいのきらい」
「お空も泣いてるわね。でもね、もう少ししたら暖かくなってお花がいっぱい咲いて、そうだお弁当もって川べりに行こうか?」
「うんいく。いいちゃんとおかあさんと・・・おとうさんは?いかないの?」
「こうちゃん。お父さんにいてほしい?お父さんがいないと寂しいのかな?」
「ううん。いいの。おとうさんはいつもおこるから、おかあさんがかわいそうだもん。いいちゃんと3人でいい」
小さな唇をぎゅっと噛みしめた琥貴は、小指を突き出し指切りげんまんと笑った。
「解った。指切りげんまんね」
「うん。うそついたらはりせんぼんの~ます」
       
ささやかな約束。
                    
ノラネコ
「・・・・いいよ・・・・・・」
「出来れば・・・・傷つきたくない。苦しい思いや辛い思いはしたくない」
「そりゃな。でも逃げたって何も変わらねえし、自分が同じところにいるだけで成長しねえじゃん。生きるって確かに辛いことの方が多いだろうさ。でも、一歩進んだその先に光があると思いたい。もしかしたら、それがさっき言った神のサインってものかもしれねえし」
「どうすればいいんだろう、解らなくなっちゃった。」
「目の前にあることに囚われて、がんじがらめにならなきゃいいんじゃねえのかな?」
「でも、もっと辛いことが起きるかもしれないんでしょ?」
「シッカ・・・人間ってさ勝手なもんで、過去の苦しみに比べたら今、目の前にあることなんて大したことないって、頭じゃ解っててもさ、心が否定するんだよ今の方が辛いって・・・よく言うだろ?喉元過ぎれば熱さ忘れるって」
「それって・・・・?でも本当に過去の苦しみより、目の前のモノの方が大きかったら?乗り越えられなかったら?」
     
「生きてりゃ何とかなるって。とにかく頑張れよそれしかねえだろ?」
「頑張るってどう頑張ればいいの?」
          
私が不登校になりかけた頃みたいだ。
毎晩、琥珀にメールして今みたいなやりとりをしていたっけ。
そのまま高校に行き続けることに意味を見いだせず、かと言って何がしたいわけでもなく、毎日心が漂流しているようだった。
今は少なくとも目標がある。生きていく道しるべとも言うべきものを手にしている。
あの時の空っぽな状態に比べたら、今のほうがはるかに充実しているのは解っているけれど・・・・
「普通に生活することが大事なんじゃね?辛いことや苦しいことが通り過ぎるまで、淡々といつもの暮らしをする。これが案外難しかったりするんだよ」
「琥珀は・・・そうやって乗り越えた経験あるんだ」
「まあな。毎日精一杯働いてそんな中で人に出会ったり、別れたりって言う単純なことの繰り返しでいいんじゃねえの?とにかく自分が頑張れることをすりゃいいさ。」
             
「それが一番難しいと思う」
「ムリをしない。フリをしない。自分らしく。そう言った意味じゃユネが一番自然体かもしれねえけど」
「・・・・・そうかな・・・・・」
             
「野良猫みたいなとこあるじゃん。傷ついたらじっとうずくまって治るのを待つみたいなさ」
「・・・・・ノラ・・・ネコ・・・・?」
         
「ゆねがそんなにシャープなものかな?」
「シャープ?つうより本能?何か野生の感で動いてるみたいじゃん。ユネって」
「・・・・・・よく・・・わからない・・・・」
「上手く言えないんだけどな。臆病なくせに大胆つうか好奇心旺盛つうか・・・・でもめんどくさがりだしな」
「それの何処が野良猫なのよ?」
「なんとなくさ。マイペースなところかな?」
「どっちかって言うと飼い猫っぽい気がするけど・・・」
「・・・・・人間・・・・だけど・・・・」
「そうかあ?尻尾生えてんじゃねえの?お前」       
胎内の記憶
「・・・・ここも・・・・・・・」
今まで黙って話を聞いていた湧泉音が、ぐるりと周りを見渡しながら呟いた。
琥珀はふと学園祭前の、あの放課後の教室に思いを馳せた。
今、目の前に居る湧泉音の瞳は、空に手を伸ばし呼ばれていると言ったあの時と同じだ。
 
生まれる前の記憶。
胎内の記憶。 確かに琥珀自身がそう言ったのだ。
既視感に襲われた3人でテーブルを囲むあの風景は、記憶の片隅にある幼いころの自分達とも違う。
                                 
今とは別の時代の別の景色だと、どこかでそう思えた。
それではいつ?どこで?
もしそれが、生まれる前のものだとしたら・・・・・?
「んなわけ・・・ねえよな」
琥珀は1人で首を振った。
「何?どうしたの?ゆねも琥珀も・・・」
シッカの不安げな顔は今にも泣きだしそうになっていた。
「何でもねえよ。ユネが変なこと言い出すからだよ」
「・・・・・・でも・・初めて来た・・・時から・・・・」
「ガキの頃ここに来たんじゃねえのか?シッカのおやじさんか誰かに連れられて・・・?」
「それはない」
今度はシッカが首を振りながら答えた。
「だって子供の頃、ゆねも一緒にこっちに遊びに来たことなんてなかったもん。ママはおばあちゃんの看病しに頻繁に帰って来てたけど、私はたいていパパと留守番してたから」
「・・・・・・ごめん・・・・・・」
「あやまることじゃないし」
               
「なあ、取りあえず謎解きはおいとこうぜ。3人でこうやって久しぶりにつるんでるから、子供の頃の思い出がごちゃ混ぜになってるのかもしれないし」
「そうじゃなかったら?子供の頃の思い出じゃなかったら?」
「その時は・・・・・」
言いかけて琥珀は2人に視線を向けなおした。
妙な既視感と言い、シンクロニシティと言い、こちらに来てから続けざまに感じるのは気のせいだろうか?
3人を取り巻く微妙であいまいで不確かな気配。彼自身それが何かは解らないにせよこのまま収まるとは思えない。
むしろもっと大きくハッキリ事が見えた時・・・・・
俺はともかく、こいつらは大丈夫だろうか?
「お前ら、この先何があってもその答えを受け止める覚悟はあるんだろうな?」
「・・・・・覚悟・・・・?」
「琥珀。怖いよその言い方。何があるって言うの?」
「俺も解らん。ただ知ってしまったらもう後戻りできないような今までの自分じゃいられないような、そんな気もする。」 
   
偶然の必然
「見えざる手って、サインってこと?」
          
「うんまあな。それが俺にとってはシンクロニシティってやつなんだけどな」
「・・・・・・シン・・・・クロ?・・・」
「ああ、オリンピックとかで、ほら、水泳のやつ?2人とか団体で泳ぐの・・・あれ?」
「シッカも考えることは一緒か、まあそう言うことでもあるな。意味のある偶然の一致ってやつだから」
「意味のある?偶然?」
「・・・・・一致?・・・」
「偶然の必然ってよく言うだろ?物事が起こるには必ず理由があるって・・・宇宙の法則だっけ?何故起きたか?その理由を探すことが大事なんじゃね?」
「それは・・・いいことも悪いこともってこと?」
「ああ多分両方だと思う。いいことばっかに意識を向けて悪いことは見て見ぬふりなんて、そんな都合のいいようには世の中出来てないんだろうしな」
「物事に意味なんてない!って人もいるんじゃないかな?ほらよく言う自分探しは無駄だって言うのと同じで」
          
「そう思う奴はそれでいいんじゃねえの?俺はやっぱり生まれて来た意味を知りたいし。何のために音楽やってんだろう?って常に考えて、がんじがらめになっちまったこともあったけどな。自己表現って・・・この言葉は好きじゃないけど、その唯一の方法が俺にとっては音楽だから」
「それが青春って言うんだって、サッチン先輩が言ってた。大人になったらそんなことすら忘れて生きてるって」
「あの人がそう言ったのか?」
「うん。でも先輩だって初めからそんなんじゃないって。私達の年頃にはあがいて、もがいて必死になって自分が生きる意味を探してたって。大人になってどこかで諦めがついたとも言ってた」
「それはあの人が、いや、草加女史が若い時やるだけやったからそう言えるのかもしれないぜ?」
「そうだろうね。ある程度の年齢になったら想いを手放すことが出来たって言ってたもん。諦めとか開き直りともまた違うって。ただ、先輩も生まれて来た意味なんか探してどうするの?って聞かれたことがあったらしいよ」
「へえ。で女史は何て答えたって?」
            
「そんなもの死ぬまで解らないと思うって」
         
「そう答えたのか?」
「だって、笑ってた。解らなくても考えて生きるのとそうじゃないのとでは充実度が違うんだって。ただ生きてそこに在るってことが大切に思える様になったともね」
「ただ生きてそこに在るか・・・禅問答みたいだな?いや哲学的ってのか?」
「自己表現って言葉も今ならバカみたいに思えるって」
「左様ですか。まあそうだよな、音楽やってる時やバイク乗ってる時は、そんなこと一々考えないしな」
「青春の特権ってヤツだからせいぜい苦しめ!っていわれたよ」
「ああ女史の言いそうなセリフだぜ」
「ちょっと、さっきから女史、女史って嫌味なんだから」
「嫌味じゃないって、尊敬の念を込めて言ってんだぜ」
「どうだか」
「ああ言うどんと構えてる人もそんな時代があったのかって、ちょっと不思議なんだよ。じゃあ俺らもあれくらいの齢になったら何にも悩んでないみたいに振舞えるのかな?って」
         
「琥珀は無理なんじゃない?年取っても変わらずガツガツしてると思うな」
「何だよ。そのガツガツってのは?」
「生きることに貪欲って意味よ」
「それは生命力があるってことだな。よしよし」
「それにしても、何なんだろうね?ゆねも琥珀も同じような光景に覚えがあるって・・・」