無題ドキュメント 56
南へ
クソ!石村のヤロー!
加速するカロンのエンジン。爆音と共に悔しさが弾けだす。
君はルックスも申し分ないねえ。
初対面で石村からそう言われた時、一体このオヤジは何を言っているのだろうと琥珀は思った。
彼の真意がその時は解らなかったのだ。
ビジュアル系だと?ふざけやがって!俺はそんなチャラチャラしたガキじゃねえよ。
チキショー早く次の曲を作って、あのクソオヤジに見せなきゃ。
見せて・・・どうする?信号待ちでカロンのエンジン音が静まると同時に、琥珀の怒りも静まって行く。
カロンを脇に寄せ、取り出した携帯のアドレスを手繰り彼はふと我に返った。
そっか。今、こっちに居ないんだよな、ユネの奴。
デビューが決まってからと言うものの、自分を取り巻く環境が一気に変わり、押し流されるようにただ時間だけが過ぎて行った。
                           
同じ高校に通っている間は、ゆねと顔を合わせていられたのだが、卒業しそれぞれの道を歩き始めてからは、お互いにメールでやり取りするだけの時間が過ぎた。
途中、ユネが大学を休みがちになり、部屋に引きこもるようになって、1度だけ訪ねたことがあったが、その時もあまりゆっくり過ごすことが出来ないまま別れたのだ。
シッカにいたっては、スカウトされた時に話したきりだ。
「凄い、凄いよ琥珀。やったね。ああ何だか私まで嬉しくなっちゃった。」
受話器の向こうで本当に飛び跳ねている彼女が浮かぶ。
「私ね、こっちに無理やり帰ってきたじゃない?それもありかな?って思ったの。だって琥珀やゆねみたいな才能ないし、何やっても中途半端だし、目標もないし。でも、琥珀の話を聞いたら自分も頑張らなきゃって思える。しかも、今、私がいる環境って琥珀を応援できる最前線みたいじゃない」
最前線と言う言葉に琥珀は思わず噴き出した。
実家の仕事をそういう言葉に言い変えるシッカの言葉遊びだ。
                             
「ごめんね。別に琥珀の夢に相乗りするわけじゃないんだよ。でももう嫌なの、何の目標もなく毎日ただ生きていくのって。漂流してるみたいでとっても損な感じだから」
「漂流ってのも凄い例えだけどさ。相乗りか、いいなそれ!」
「ありがとう琥珀。私に目標をくれて」
シッカの言葉に心がとても温かくなったのを覚えている。自分の存在が誰かに希望を与えられるなら、音楽と言う世界を選んだことを迷う必要はない。
自分がこの世に生まれたことも、大切な意味がある気がしてくる。
「何をカリカリしてんだろうな、俺は」
琥珀は手に持ったヘルメットを指ではじいた。
気が付くと雨はあがり、西の空が明るくなって幾重にも重なった光の束が地上に舞い降りる。
「天使の梯子か・・・・・」